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2010年11月30日

君あり、故に我あり

◇◆第700回◆◇

406159706X君あり、故に我あり (講談社学術文庫)
サティシュ・クマール  尾関 修・尾関沢人(訳)
講談社 2005-04-09

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つながりを重視する思想
この表題はサンスクリット語の格言「ソーハム」を著者流に訳したものであり、デカルトの「我思う、故に我あり」へのアンチテーゼです。デカルトの二元論の特徴は、すべてを分割、分類、分析するということです。精神と物質を分け、心と体を分け、世界と個はばらばらに存在できると宣言したのです。ここに加わったのがニュートン物理学、ダーウィン生物学、フロイト心理学でした。これらはすべて自我を中心にとらえており、これこそが今日の環境や社会や精神の危機の根底にある、と著者は指摘しています。

著者はインド生れの思想家であり、9歳でジャイナ教の修行僧となり、その後、ガンジーの思想にふれて還俗。核大国の首脳に平和の紅茶を届けるという八千マイルにおよぶ平和巡礼を行いました。ジャイナ教、ヒンズー教、仏教といった東洋の宗教、思想の根底にあるのは、すべてはつながっているという考え方です。それを示しているのが「ソーハム(君あり、故に我あり)」なのです。仏教では縁起ということを言います。すべては縁によってつながっており、ひとときも留まることなく流れ変化していきます。孤立した個というものはありません。

知識と智慧は違う
第一部は彼が育った家庭、特に母との思い出について書かれています。彼の母は読み書きができませんでしたが(多分かつてのインド女性なら珍しいことではなかったのでしょう)、母親の言葉を読むと、知識と智慧は別のものだということを痛感します。大学院を出た人であっても、彼の母が語るような深い人生に対する智慧を身につけている人は稀でしょう。彼女の智慧は信仰と自然から得たもののように思えます。

現代の日本人は西洋的科学思考と合理主義、効率主義の中で育てられます。非科学的、非合理、非効率といえばもうそれだけでダメなものという烙印を押されてしまいます。しかし、果たしてそうか、ということを著者は本書の中で述べています。効率を優先し、どんどんそれをあげていったために、もはや適度なところで止ることができなくなっているのが現代資本主義社会です。地球の自然や資源を食い滅ぼしつつ自らが動くことをやめられない。

純粋な合理主義は暴力
また、彼が平和巡礼をおこなった際にイギリスでバートランド・ラッセルと対話したときのことが語られています。ここを読むと、西洋的知の限界ということを感じざるをえません。バートランド・ラッセルはすべてを数学的に証明できると考えていました。合理主義の典型です。純粋な合理主義は精神的暴力であると著者は述べています。合理性は必要ではあるけれど、それは相応の位置に留まるべきなのです。それ自身が暴走すると暴力支配につながります。

純粋な合理主義にこだわれば、どのようなことでも合理主義で正当化することができます。近・現代のヨーロッパ文化では合理性が最重要視されてきましたが、それが植民地主義、戦争、自然破壊につながっています。ゆきすぎた科学的合理主義、二元論、個人主義、消費主義、物質主義はつながっており、これらを根源的な問題として考えず、単に戦争反対や核兵器廃絶、エコロジーのようなことを唱えてみても解決は難しいのです。

言葉や論理で明確に示せることだけが智慧ではありません。そうしたものでは表しきれない真理があります。本書はそうした視点から現在世界が陥っている状況を解きほぐす鍵について書かれています。それは、単純明快な論理やスローガン、誰かを悪者にして糾弾するといったこととは異なる視点を持ち、異なる行動基準を持つことを意味します。


君あり、故に我あり (講談社学術文庫)
君あり、故に我あり (講談社学術文庫)
サティシュ・クマール 尾関 修

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コメント

はるさん、コメントいただきありがとうございます。

>お勉強が出来ることと、頭が回転することは全く違うんだよ。
お嬢さんがそれを本当に理解されるのは、もう少し成長してある程度人生経験を積まれてからかもしれませんね。学校やそのシステムは社会の中で一番進歩が遅いところだと思いますから。

でも、そういう言葉をお父さんから言ってもらえるお嬢さんはいいですね。「いい成績=賢い子、有名大学へ進学し、一流企業へ就職すること=人生の成功」と思っている親がまだまだ多数派でしょう。

親自身が智慧を身につけるよう心がけているか、もありますよね。たくさんお金を稼げばいい、社会的地位があがればいい、という考え方からどうやったら思考を転換できるか、これもなかなか難しい…。

優嵐さん、こんにちは〜♪

>知識と智慧は別のものだ

色々なことを学べば学ぶほど知識と智恵が別物であることを僕も痛感します。
最も大切なのは智恵の方で、知識はあくまで智恵を高めるための手段に過ぎません。知識が智恵のための手段である間は知識は悪さをしないのですが、知識が智恵を上回る目標になると本末転倒が起こります。

例えば、平成教育委員会の宇治原君なんかはインテリ芸人か何か知りませんが、単に知識を持っているだけで智恵の片鱗も見えないので、僕から見ると彼のどこが頭が良いのか分かりません。知識だけだったらコンピューターと戦わせるだけで宇治原君なんかボロ負けですから。

学校教育でもそうで、「お勉強ができて沢山のことを知っていることが頭の良いこと」というとんでもない誤解が蔓延していて、教師も保護者も頭悪いなぁ〜、とつくづく感じます。
娘には、「勉強というのは一種の『頭の体操』で、頭を使うから脳の筋トレができるのであって、各教科は単に頭の体操をするための道具に過ぎないんだよ。丸暗記は頭を全く使わないで出来るから全く頭の体操にならなくて何の勉強にもなってないんだよ。お勉強が出来ることと、頭が回転することは全く違うんだよ。」ということを口を酸っぱくして言っていますが、まだまだ良く分かっていないようです。(-_;)

ゆとり教育にしても、知識詰め込みを反省して、出した結果が知識詰め込まず。それで学力が落ちたら、また知識詰め込みに逆戻り。知識のあるなしで右往左往している限り、解は見付からないのにな〜。智慧ありき、あくまでそのための手段としての知識、という発想は頭の固い教育界からは出てこんな〜、というのが印象です。

人生で物を言うのは智慧の方で、智慧のない知識なんて何の役にも立たないんですがね〜。ここに至るのにはやはり何でも良いから自分の好きな分野をとことん究めないと見えてこないのでしょうね。

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