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2010年10月11日

安野光雅 風景画を描く

◇◆第695回◆◇

414011228X安野光雅 風景画を描く
安野 光雅
日本放送出版協会 2006-10

by G-Tools

安野光雅の絵に対する考え方を学ぶ
国際的にも評価の高い画家、絵本作家である著者が、風景画に的を絞って自身の創作の現場から語ったものです。使っている用具や写生場所、構図の取り方などについて書かれ、著者の絵も多数載っていますので、透明水彩で風景画を描こうという人には実践的な参考になる部分が多いと思います。一方、こういう本を読むとき、私は「はじめに」と「おわりに」が最も興味深く感じられます。画家の手法はそれぞれ違いますが、その人の絵に対する考え方がそこには記されているからです。

著者は「はじめに」の中で「絵は『派』を重んじて自分を殺すより、自由に描き、自分の世界を作ることが理想です」と書いています。画家の書いた技法に関する本を読んで、それに従って描いてみようとしても、どうにもしっくりいかないことがこれまでもたびたびありました。絵もある程度は技術ですから、修練やそのための忍耐が必要だということはわかります。しかし、そういうものとは少し違う、これは自分の好みではない、という感じがする場合があるのです。

自分の絵をみつけることの難しさ
絵画の技法書も一種のハウツーものだと思います。ハウツーものの落とし穴は、その方法が読んでいる人にあっているかどうかは著者にはわかりようがないということです。そのノウハウがぴったり肌にあう人もありますが、全然駄目だという場合もあります。そんなとき、著者に対して「こんなの役に立たない」と文句をいっても仕方がありません。まして自分は駄目なヤツだと落ち込む必要はありません。単にその方法が自分にはあっていないというだけの場合がほとんどだからです。

ただ、それに気づくのは難しいことです。著者も先ほどの文章に続いて「もっとも、これはむずかしいことです」と書いています。既成の概念をはずしてものを見ることをしなければならないからです。キセイノガイネンというものがどれほど人を枠にはめてしまうか。そして著者はこうも言うのです。「これを読む方がアマチュアだったら幸いです。既成の概念に毒されていないぶんだけ、自分の世界を作る可能性に恵まれているはずですから」。

ゴッホの絵が人の心をうつわけ
著者はゴッホが好きで、その足跡をたどりゴッホが描いた教会も描いています。ゴッホは生前一枚しか絵が売れませんでした。ゴッホが生きていた当時、見取り枠を使って写実的に描くというのが正統派のやり方でした。ゴッホもそれを試みますが、まもなくやめてしまい、色も形も自由に描くようになります。著者も見取り枠を使って描くことを試み、「まるで機械になったようだ」と書いています。それでも写実的な絵になることは間違いありません。

写真ができている現代、単に写実的に描くことにはもう意味がなくなっています。絵は技術ではなく何より創造性です。ゴッホの絵が技術を超越して人の心をうつのは、そこにゴッホの精神の震えを見るからではないか、と著者は書いています。しかし、だからといってゴッホの絵を真似することは無意味です。それは自分の絵ではないからです。技法書を見て描く場合の落とし穴もここにあります。それはそれを描いている画家の方法であって、自分の絵ではないからです。

好きなように描くということの難しさ
芸術も真似から始まるのは確かでしょうが、問題はどこで離陸するかです。さらに、どんな方法であろうとも、それが絶対であるなどとは思わないことが大事でしょう。自分は違うやり方でやる、自分は自分の方法を探す、そういう気持ちが大切です。著者も「あくまで自分の絵を探すのです。すぐには見つかりませんが、絵が嫌いになりさえしなければ、それはやがて見つかります」とこの章の最後に述べています。

「おわりに」のなかで著者は、自分の好きなように描くということの難しさを、「裸で人の前に出ていって、自分のすべてをさらけだすことだからです」と述べています。ノウハウがあり、教えられたとおりのものをやることは、多少の上手下手があっても、自分は隠れることができます。しかし、自分の考えたようにやることは、少し恥ずかしい。表現というものはすべからく恥多きものなのです。それでも描かずにはいられなかった、それが著者の結びの言葉です。


安野光雅 風景画を描く
安野光雅 風景画を描く
安野 光雅

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コメント

はるさん、コメントいただきありがとうございます。

好きなように描いていい、好きなように描きなさい、というのが安野光雅さんの一番言いたいことだと思います。「好きなようにする」というのは、どの分野でも実は非常に難しいことなのかもしれない、と思うようになりました。

結局そうするしかないのだけど、それができない、というか、そうするのが怖いからつい回りはどうしているのだろう、と思ってしまう。そして、何かをお手本にしてしまう。

>常識以上に大切なのは「他人とは違う本当の自分らしさ」という「非常識」であり、この社会性と個性のバランスを上手く取って行くことが、社会的人間であり続けながら、かつ自我も大切にする生き方ですね。

これができたらもうあとは怖いものなしなんですが、なかなか既成概念を外れるのに躊躇するのが普通の人間なのでしょうね。成功のハウツー本がこんなに売れるのもそれゆえだと思います。「人と違うことをしろ」と言っている人の本を読んでその人と同じようにしようとする、という考えて見れば落語のような状況に陥るわけです。簡単にできないから成功者は少ない、ということですね。

優嵐さん、こんにちは〜♪

なるほど〜。絵画というのは普通の人には馴染み深い訳ではありませんが、絵画であれ何であれ、「どんな分野にも通じる何か」はどんな分野にも共通にあるものなのですね。

>こういう本を読むとき、私は「はじめに」と「おわりに」が最も興味深く感じられます。画家の手法はそれぞれ違いますが、その人の絵に対する考え方がそこには記されているからです。

小説であれ、新聞や雑誌であれ、自分の文章であれ、「はじめに」と「おわりに」はとても大切ですね。この多忙な世の中ですから、忙しい人々は起承転結の「起」を読んだ後は飛ばして「結」を読むぐらいの時間しかありませんから、この短い「起」と「結」で言いたいことを簡潔的確に述べることはとても大切ですね。

>著者は「はじめに」の中で「絵は『派』を重んじて自分を殺すより、自由に描き、自分の世界を作ることが理想です」と書いています。
>著者も見取り枠を使って描くことを試み、「まるで機械になったようだ」と書いています。

これも深い意味合いがありますね。宗教や芸術で良くあることですが、派を重んじすぎると、自分を殺してしまう結果になり人に伝えられるモノが無くなってしまいます。また、派におもねることにより、宗教本来の目的や芸術本来の目的とはどんどんかけ離れて世俗や欲に染まって行ってしまうケースは数え切れない程あります。
同様に、常識も大切ですが、常識以上に大切なのは「他人とは違う本当の自分らしさ」という「非常識」であり、この社会性と個性のバランスを上手く取って行くことが、社会的人間であり続けながら、かつ自我も大切にする生き方ですね。実を言いますと、僕も永遠にこの二つの葛藤の中でもがいていまして、時と場合によって社会性を重視するか個を重視するかを適宜判断しなければならなくて、この二つのバランスは本当に難しいことですね。たぶん一生涯の課題の一つであり続けると思います。

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