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2009年7月 4日

心は脳を超える

◇◆第585回◆◇

心は脳を超える―人間存在の不思議

ジョン・C・エックルス、ダニエル・N・ロビンソン  大村裕、山河宏、雨宮一郎(訳)  
紀伊國屋書店   1989-02

心身問題と二元論的相互作用説とは
心身問題(心脳問題とも)とは、心と身体(主として脳)の関係についての哲学・科学上の長年に渡る大問題です。ひらたく言えば、人間の心は完全に物質的存在から生れるものなのか、何らかの非物質的存在が介在するものなのかを問う問題です。古代ギリシャ時代からすでに論じられており、現代の脳科学、認知科学、理論物理学、人工知能、心理学、哲学といった幅広い分野で研究され、さまざまな説が出されていますが、いまだ決定には遠いという難問です。

本書の著者エックルスは1963年にノーベル医学・生理学賞を受賞した20世紀後半の脳研究を代表する科学者です。科学者で心身問題に取り組む人の大半は当然ながらほとんどが唯物論に近い立場をとっており、心は脳の働きによるものであり、いずれすべて科学で解明できると考えています。しかし、エックルスはそうした中では異色で、二元論的相互作用説(心は脳から独立した能動的な非物質的存在である)との立場に立っています。

この仮説は、心と脳は密接に結びついているが別のものであり、心は脳を介して外界と連絡しながら、個々の人間の意識を形づくり、自我あるいは魂が意識の根源的な主体として人格を現していくというごく常識的なものである、と著者は言っています。自我すなわち魂が胎生期のいつかの時点で肉体に宿り、脳そのものはその魂が使用する道具だというのです。

唯物論にある矛盾
科学者としてはあまりに素朴な、という印象かもしれませんが、著者は大半の科学者が支持する唯物論の矛盾を指摘しています。それは、自由意志の問題です。唯物論では、脳が純粋に物理化学的な条件に従ってその神経機構を働かせて意識を生じ、あるいは内側面で意識になるとしています。もしそうだとすると、その過程には意識そのものが介入する余地はまったくなく、私たちが常識的に感じている思考や行動の自由は錯覚にすぎないことになります。つまり、私たちに判断の自由はなく、唯物論を選ぶ自由すらもないということになります。

唯物論には様々なバリエーションがありますが、現在の主流は、「心という非物質的なものは存在しない」という考えをとっています。ありていに言えば、心、思想、魂、霊感などは放棄されるべきものであり、このような言葉が何を指しているかといえば、単なる脳内の物理化学現象にすぎない、と主張しているのです。著者はこんな「ナンセンス」を本気で説く側よりも、多くの人が「科学的」との思い込みでこれをたやすく受け入れがちなことの方が問題である、と述べています。

唯物論批判は科学としての神経生理学の成果への批判ではありません。これがあってこそ心と脳の相互作用が明らかになってきたのです。著者が言うのは、人間の思想、感情、意志、記憶、想像、意識、倫理観などを否定するような形而上学はとても信じがたいという意味であり、信じがたいということ自身が心の働きの存在の証拠といえ、それだけでも哲学的唯物論は破綻します。

脳科学者の間では、さらに脳の研究が進めばいずれ精神現象がすべて物質作用の結果として解明される日がくると考えている人が少なくありません。しかし、そんな日はこないと著者は言い、唯物論者たちが「自分たちの説は自然法則にかなっている」と主張することに対し、その矛盾を指摘しています。

自分自身で道を選ぶ必要がある
心身問題というのは、科学や論理では解明しえない問題ではないか、と思います。ハイゼンベルクの不確定性原理が科学の限界を、ゲーデルの不完全性定理が論理の限界を示しているように、万人が納得する形で解決する日はおそらく来ないと思うのです。その場合、自分自身がどういう考えで進むかということを選択せざるをえないでしょう。社会はその合意の上になりたちます。

唯物論者は神だの魂だのという言葉をきくと、「非科学的」と笑うのかもしれません。ただ、科学が全てを明らかにするというのもある種の「信仰」だと考えておいた方がいいでしょう。科学を過信するあまり、人間精神の偉大さを打ち壊し、人間は、宇宙の大きな広がりの中の取るに足りない惑星上の取るに足りない動物であると思わせようとしている人たちが居ます。

しかし、人間についてはまだ未知なことが沢山あります。人生について本質的なことはまだ何もわからないけれど、この地上の生には何か深い劇的な意味があり、死後それがわかるかもしれないということに心を開いておくべきである、と著者たちは述べています。

心は脳を超える―人間存在の不思議
心は脳を超える―人間存在の不思議
ジョン・C. エックルス ダニエル・N. ロビンソン 大村 裕

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コメント

はるさん、お久しぶりです。コメントいただきありがとうございます。

心身問題というのは、興味深いなあと思いました。そして、人間なら誰しも一度は考えたことがある問題だろうとも。この本を読んでよかったのは、「唯物論」の問題点がわかったことでした。とかく科学者側から二元論(魂などの存在)を非科学的と非難する話はよく聞くのですが、唯物論の矛盾点というのを知って、なるほどと思いました。

欧米の唯物論というのは無神論と結びついていて、それは恐らく強力な一神教であるキリスト教に対抗する手段として生れた背景があるのじゃないか、と思います。日本なんかよりはるかに宗教のシバリがきつい社会だったと思うんですね。

リチャード・ドーキンスの主張などを見ると、どうしてそこまでムキになって神を否定しなきゃいけないのかと不思議でしたが、一神教の背景はすごく強烈なものがあるんだと思います。

日本人は だから欧米人が抱くような唯物論はなかなかもてないし、根本的には理解しにくいように思います。この本の著者は汎精神(意識)論というのも一つの例としてあげていました。すべてのものに意識が宿っているという考え方ですが、アニミズム的な神道や一切悉有仏性と説く大乗仏教の考え方などこれに近いかなと感じました。日本人の精神のベースはこっちだと思うのです。

科学的というのは、今はひとつのドグマになっていて、著者も現代の「迷信」のひとつに科学信仰をあげています。科学の妨げていないことは何事にも反対せず、科学の認めていないことには何事も支持しないのが正しいと思い込む…、倫理や個人の幸福の基準さえそこにもって行くとしたら大変危険ですよね。

COXさん ご無沙汰しております。m(__)m

科学と精神の関係は非常に複雑なものですね。
科学は精神的世界の存在を駆逐することを究極の目的にしていますが、僕も著者と同様にそれは不可能なことだと思います。

例えば、科学の発達によって何らかの悲しみの気持ちを完璧に消滅させる薬剤が開発されたとしたら、人間は悲しみから解放されるかも知れませんが、同時に喜びも失ってしまいます。喜びは悲しみがあるから感じる相対的なものであることは、アインシュタインの相対性理論から演繹できてしまいますから。そうすると人間は、悲しみもない代わりに喜びもない、という精神的破綻状態に追い込まれることなるでしょう。

また、科学の発達によって人間が望みさえすれば死を逃れて永遠の命を約束される状態になった場合、人間は死から解放されるのと引き替えに生き甲斐も喪失してしまいます。永遠の命は永遠にダラダラと続くだけの命になってしまいますから、終いには「生きることに飽きて」しまいます。生き甲斐というのは死を前提にするから生まれる相対的なものなのですね。すると、人によっては「自分はもうこれだけのことをしたのだから生命維持装置のスイッチを切る」という自死(自殺)の選択をする人が相当出てくるでしょう。ということは、どんなに科学が発達しようとも、「死」という動物にとって最も重い事象から人間は解放されることはあり得ないということになってしまいます。

このため、科学の究極的目標である唯物論とは裏腹に、科学が発達すればするほど唯物論のほころびが増えてしまうという矛盾を抱えることに繋がって行ってしまうという結果に陥ってしまいます。
本当に科学を究めた科学者ほど精神的世界の存在に敬意を払うのは、「科学の究極的目標である唯物論が完成することは永遠に来ない」ということが見えてくるからなのだと思います。

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