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2009年6月13日

人はなぜ宗教を必要とするのか

◇◆第576回◆◇

4480058222人はなぜ宗教を必要とするのか (ちくま新書)
阿満 利麿
筑摩書房 1999-11

by G-Tools

宗教は無用のものか?
日本人は「無宗教」だと言われます。敬虔なクリスチャンか、新興宗教の信者でもなければ信仰を持っているとは言わないでしょう。宗教なんて生活するのに無用のもの、と大多数の日本人は思っています。しかし、そんな「無宗教」者も、「本当の生き方」を真剣に模索しはじめたとき、また、人の死など身にあまる不条理を納得したいと願ったとき、無宗教ではいられなくなっていくのではないだろうか、と著者は述べています。

「死」があるから宗教がいる
人はなぜ宗教を必要とするのか、という問いかけに自分なりの答えを出すとしたら、「人が必ず死ぬ存在であり、それをあらかじめ知っているからだ」ということに尽きます。この世で何が起こるかは誰も完全に予測はできませんが、100%確実なのは、みな遅かれ早かれ必ず死ぬ、ということです。今この文章を書いている私も、読んでいただいている方も100年後には全員この世にいません。死ぬということがわかっていて、その「死」という状態が何なのかよくわからない。だからこそ宗教を必要とするのではないでしょうか。

人間は意味を追求し、納得したいと思っている存在です。これまでの宗教は、その意味不明な「死」に意味を与えてきたのです。大雑把に言えば、地獄や極楽というもので人間を納得させ、この世の過ごし方にも示唆を与えてきました。現在、もっとも科学的とされる死への考え方は「死ねば無になる」というものです。これもひとつの納得の仕方だと著者は書いています。ただし、これが科学的かどうかはまた別問題です。

科学は死に回答を与えることはできない
科学は死の問題について検証することはできません。「死ねば一切が無になる」ということは、「科学」では証明できないことです。科学とは、実験によって証明される事実を基に仮説を構築していく営みですが、死後の世界は、「科学」の対象となる事実を提供することができません。死後の世界とは、生きている人間が、他者の死を見てひたすらあれこれと想像する世界です。「死ねば一切が無になる」かどうかは死んでみなければわからないことなのです。

他者の死はともかく、自分の死は一回きりのことであり、生きている人間にできるのは自分なりの納得の仕方を模索することだけです。現代人にとって「科学」の衣をまとっているものはもっとも納得しやすいものです。しかし、科学的だから納得し非科学的だから納得しないというだけでは、人間の精神は衰えていく一方だ、と著者は指摘しています。死後の世界や死について、科学的常識だけをたよりに納得しようとする態度は一見わかりやすいようでも底の浅い理解でしかなく、危機に直面したとき、本当に役立つことができないのです。

本当の生き方とは
本書では夏目漱石、志賀直哉、丹羽文雄、井上靖たちの作品から近代以降の日本人の死生観について考察しています。また、法然、親鸞といった浄土仏教の信仰内容を紹介して生死の問題について宗教がどのようなことを提案しているかを示しています。『化石』という井上靖の小説で、余命一年とされた主人公がすでに死の床にいる友人を訪ねていく場面を取り上げています。あと一年寿命があれば何をしたいか、と問われて、その友人は「本当の生き方がしたい」と言います。

著者がこの小説に惹かれるのは、死という極限状況を前にして、人があらためて「本当の生き方」を模索するという点だと言います。死は未経験なことだから不安です。しかし、この世には現世的享楽や雑用がいろいろありますからそれに取り紛れて、多くの人はそのときまで放置しておきます。「死」は「本当の生き方とは何か」について考えるきっかけをくれるものであり、それをつきつめれば限りなく宗教(宗教という名で呼ばれる精神生活)に近づいてくるものであるようです。

人はなぜ宗教を必要とするのか (ちくま新書)
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コメント

はるさん、コメントいただきありがとうございます。

もし死ななかったら人間は幸福になれるだろうか、と考えます。老いがあって死がないとしたら、それこそ地獄でしょうが、もし不老不死であったとしても、人間は幸せにはなれないような気がします。

今生が有限だからこそ、意義があるのじゃないかと思います。自分自身、この心身で何千年も何万年も生きなさいといわれたら、「うーむ」と考え込んでしまいます。もっとちがう存在になってみたい、と思いますから。

私も特定の何宗という定義でくくれるような篤い信仰心は持っていませんが、この世界には神仏に相当するような何か「大いなる存在」があると今は考えています。そして、それは科学によって解明されたり証明されたりするような類のものではないとも思っています。

科学は数量化、定量化でき比較検証できるものにしか適用できません。例えば、宇宙物理学ではビッグバンによって現在の宇宙ができた、と理論的に証明していますから、それを私は信用します。しかし、ではビッグバン以前には何があったのか、なぜビッグバンなる現象が起こったのか、は決して科学では証明できません。その術がありませんから。

神仏というのはそういうものだと思うのです。そしてその「大いなる存在」とつながる手段は私たちひとりひとりに与えられているのだとも思います。私たちもその大いなる存在の一部だからです。

死について考える必要があるのは、そこから逆照射することによってこの世の人生がよく見えるからだと私は思います。本当の生き方を探るためには、そうした異なる視点を持つ必要があります。人間が自分がいずれ死ぬということを知っているわけはそこにあるのではないでしょうか。

COXさん こんにちは♪

>人はなぜ宗教を必要とするのか?それは、「人が必ず死ぬ存在であり、それをあらかじめ知っているからだ」

僕も全く同じように考えています。
この世に死がなければ宗教は不要なのかも知れません。
僕もこれという宗教は信仰していませんが、何か僕の心の中だけの漠然とした神さまのようなものがいます。イエス・キリストというよりも御釈迦様のようなほんとに漠然としたものです。
何か辛いことがあったときには、「これは神さまが試練を与えてくれているんだ」とか、怪我をしたときには、「これは神さまがそのぐらいにしておかないと取り返しの付かないことが起きるよというサインを送ってくれているんだ」と感じます。嬉しいことがあると「これは神さまがご褒美を下さったんだ」と思います。
神さまと言ってもホントに漠然としたもので、いつからかそういうふうに考えるようになりました。

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