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2009年2月 3日

幸福に驚く力

◇◆第518回◆◇

4780300444幸福に驚く力 (かもがわCブックス)
清水 眞砂子
かもがわ出版 2006-07

by G-Tools

児童文学の、物語の持つ力を認識する
著者は『ゲド戦記』など多くの児童文学の翻訳をおこなっています。本書は1996年から2005年までの講演録をまとめたものです。「物語」の、子どもの本の持つ力についての話が中心ですが、それ以外にもその周辺に向かってのさまざまな考察が述べられており、思わず共感して笑ってしまったところがいくつかありました。「幸福に驚く力」という題名が大変素晴らしく、これって生きていく力だよなあと思いました。

私は基本的に大人向けの小説よりも児童文学と呼ばれる作品の方がずっと好きです。文豪と言われる人たちの作品を読んでも、「はあ、なんだかなあ」と思うことが多かったし、中には「アホ言え」と思うものも少なくなかった。あまり鑑賞力がないんだろうと思っていましたが、体質にあわなかったんだな、と本書を読むと思います。

児童文学の持つ向日性
児童文学は日本では大人がまともに取り組むべきものとは考えられてこなかったと述べ、その理由について著者は、「それがもっている向日性、別の言い方をすればそのハッピーエンディング性のゆえではないか」と言っています。シニカルに斜に構えて悲観的に物事を見ることが"大人"であり、光に向かうことは"能天気なお子さま"と馬鹿にされる傾向があるのです。

社会の、メディアの風潮もそうです。深刻だ、大変だ、問題だと騒げばものごとを深くとらえているとみなされる節があります。しかし、本当にそうでしょうか。著者はここでこう言います。

「私はここ何年か、物事を否定すること、肯定することでは、どちらが本当のところエネルギーがいるか、と考えてきました。×をつけることは案外誰にでもできるのではないか。そうエネルギーのいらないことではないか。ほっとけば人は×をつけたがるものではないか。そんなふうに考えるようになりました。(中略)人生を否定的に見ることは誰でもできる。でも肯定的にとらえていくことはなかなか大変なことだと思うのです」

不幸と恋愛ばかりの大人の文学
著者は子どものころからわからないなりに大人の小説をけっこう読んでいました。そしてそのうち、「大人の文学ってどうしてこんなに不幸ばっかり書いているのか、恋愛ばっかり書いているのか」、と考えるようになりました。このあたりはなんだか自分自身の感想と似ていて可笑しくなりました。私も大人の小説は(映画や音楽なども含めてですが)、不幸と色恋沙汰しか描いていないよなあと思っていたものです。

誰かと出会ってloveという状態にならなきゃ幸せじゃない…、そうだろうか? もちろんそれは幸せのひとつの表情かもしれない、しかし、幸せとはそんな依存症みたいな貧しいものか? 何かによりかからなければ幸せを感じられないのか? 幸せとは、もっと内側から生まれてくるものじゃないのか?、と。

自分にとって幸せを感じた瞬間を振り返ってみる
物語について、現代ではマスメディアによって届けられる"コマーシャリズムの物語"や学校から提供される"よい子の物語"がとても大きな影響を与えていると指摘しています。あのブランド品をを手に入れないと幸せじゃない、とか、こういう家庭でなければ幸せでない、とか。そんなものは嘘です。まあ、マスメディアや学校が持っている性格上それはある程度仕方がないのですが、それ以外の個人の幸せの物語をどれだけ持てるか、が大事なのでしょう。

著者は教えている学生に、人生で幸せだと感じたときを思いだしてもらう試みを行っています。最初は何かを買ってもらったとか、どこかへ連れて行ってもらったとか、そういう答えしか出てこなかったのが、「イベントをはずす」と決めると、段違いに細やかな深い、個性あふれる「幸せ」の姿が浮き彫りになってきました。他人から見たらそれのどこが幸せなのかわからないようなことでも、その子にとっては「これが自分を支えてくれた」といえるほどの根源的な幸せとして記憶されていました。それほどに幸せの姿は多様に豊かなのです。

不幸に目をこらす大人の文学、幸福に目をこらす児童文学
大人の文学は「不幸に目をこらし不幸をえぐりだす文学」であり、それに対して児童文学は「幸福に目をこらし、幸福のさまざまな在りようを描いている文学」なのではないか、と著者は書いています。また、児童文学と昔話との共通性についても触れています。昔話は大きく括ると、ひとりの主人公がいて、いつも前進し続けていって最後は幸福になる、というものです。そして必ず善が勝つ、それがくり返しくり返しいろんな物語に出てきます。

「前進し、善が勝ち、幸福になる」、このことは特に子どもの時には「これでもか」というほど伝えてやらなくてはいけないことなのではないか、と著者は言っています。それによって生きるということを徹底的に肯定してやること、そうでなければ、「どうせ生きていたって」「どうせ大人なんて」「どうせ…」「どうせ…」ということになってしまいます。

それでも人生にイエスと言い、生き延びる
もちろんそんな下地などあっという間に吹きとんでしまうような出来事に、幼児ですら会うことはあります。しかし、ここで著者は『夜と霧』のフランクルの『それでも人生にイエスと言う』という考え方に触れています。生きていくことはなかなかしんどいことだ、だけど、だからこそ逃げないで、生きていくことにイエスと言おう、と。そして、そのイエスと言う力を子どもに伝えてくれるのが昔話や児童文学が持っている物語の力なのではないか、と。

人生を生きていくことを「生き延びる」と著者は表現しています。実際、なかなかこれは大変なことなのです。自分自身さえ振り返ってみたら「ちょっとあのときは危なかったなあ」と思うことがあります。人はパンのみにて生きるにあらず、というのは本当でしょう。物語(世の中のものの見方のモデルを与えてくれるものであれば、絵でも音楽でも何でもいいようですが)によって、生き延びる力を与えてやれば、子どもは思春期あたりまでは生き延びられます。そしてそれからは自分自身でさまざまなものに出会うことによって、生き延びる力を補強し、生き抜いていくことが可能になるのです。


幸福に驚く力 (かもがわCブックス)
幸福に驚く力 (かもがわCブックス)
清水 眞砂子

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コメント

はるさん、コメントいただきありがとうございます。

幸せとは何か、ということを自分なりにずっと考えてきたな、と
感じます。幸せの定義は人それぞれ違って当然だと思います。

私がこのところ最高の幸せなんじゃないかと感じているのは、
"enthusiastic"ということです。これ、日本語に訳すと、熱狂的
とか、熱心という意味らしいのですが、原義は「心の中に神が
とりついた状態」なのだとか。

スポーツでいうところのゾーン、チクセントミハイいうところの
フロー、そういう感じです。心の奥の深いところで神(神という
言い方が不適切なら、何か大きなもの)と一体になってその流れを
受け止めいっしょに踊る状態、そんな感じでしょうか。

幼い子どもが遊びに夢中になっているときの状態に近いというか、
時間はそこには存在せず、自己への純粋な没入がある、とでも
いいますか…。

幸せというのは、ある種の瞬間の状態であって、大人になって
これを持続的に経験できる人はとても少ないのではないか、と
思います。それは決して、お金とか名誉とか目に見えるものでは
なく、何かの結果ですらありません。何かの過程なのです。

それはとても静かな強い喜びであり、心の内側への集中です。
内側からあふれ自分を取り囲む何か特別なもの。
幼い子どもは多分こういうものを持っています。しかし、なぜか
成長すると私たちの大半はそれを失ってしまう

なぜそれが失われてしまうのでしょうか。もしそれを失わなければ
人はもっと幸せでいられたはずなのに。もしかしたら、聖書で
描かれる「失楽園」とはこのことの象徴じゃないかと思います。

大人の文学が恋愛に執着するのは、恋愛によって擬似的な
enthusiasticを体験できるからではないだろうか、と考えています。
恋に恋するという言葉はそれを物語っていて、相手に焦がれると
いうより、そういう心の状態に焦がれる、というか。

ロックコンサートやサッカースタジアムの熱狂もそういう状態に
焦がれる人間心理の表れかもと感じます。でも、それらは全部外界に
投影された擬似的enthusiasticであって、ホンモノじゃないんです。
だから、恋は終わる。

本当のenthusiasticとは、たったひとりでいて、内なる心の導きに
耳を澄ませている状態です。大人はほとんどみんな外界の雑音を
聴くのに忙しく、こういうものを聴く力も失っているのかも、と
思います。

子どもの心や遊び心にこそ創造性は宿る、というのはここかもなあ
とも思います。本当に幸福でリラックスして遊んでいる心は最も
神様に近いのでは、と思うのです。

COXさん こんにちは〜♪

同感です。
僕も、なぜ大人小説には恋愛と不幸ばかり出てくるのだろうかと不思議に思っています。恋愛で心がときめかないと生きているという実感が湧かないのは、ある欲望に満足すると更なる欲望が欲しくなるような資本主義や物欲のような悪循環なのではないかと思います。また、人間は普通にしていると幸福よりも不幸により強く反応しまう性格を持っているため、自分は不幸だ不幸だと言いたくなってしまうのでしょうね。

しかし、物欲や恋愛欲というのは際限のないものであり、その沼に嵌ってしまうといつまでたっても満足が得られないものだと僕は思っています。だから新しい物を買うよりも、古いものを愛着を持って10年、20年と長く使うようにしています。夫婦や家族も一緒に生活することによって愛着が深まるものだと思いますから、不倫だの浮き名だのでひとときのときめきを得ようとするのは、新製品に対する物欲と変わらないように思いますので一切興味がありません。また、生きていると確かに不幸なことや不運なことはたくさんありますが、僕は悪いことが起きたときには、「良かった。これでまた一つ悪い業をこなして悪い業が消えてくれた。次は良い運が巡ってくる番だ」と思うようにしています。これは京セラの稲盛和夫先生に教わった生き方です。

不幸や不満足に焦点を当てるよりも、幸福や今の満足に焦点を当てるようにした方が自分自身にとっても良いことですね。そういう意味で、児童文学が幸福に焦点を当てていることは、実は最も本質的なことを突いているように思います。

素晴らしい書評を有り難うございます。

ブースカさま、コメントいただきありがとうございます。

>今ほど信じる、肯定して見る、受け入れる
>という精神が本当は必要な時代は無いのかもしれない

確かにそうですね。そんなときにこそ、あえて「イエスという精神」
が必要とされているのだと思います。
フランクルは人生の価値を問うよりもあえて価値があるものとして
ふるまってみよ、それに賭けてみよ、と言っていますね。
ナチスの強制収容所で妻子を全部殺されながら生還した彼の言葉は
重いです。

賭ければおのずから価値が生まれるということなのでしょう。
似たようなことをパスカルも言っていたような。
神がいることに賭けてみよ、神がいると思って生きれば
神と出会ったときあわてることはないし、もし神がいなかった
としても失うものは何もない、確かこういう意味だったと思います。

結局、人が信じてそれに賭けて自ら一歩を踏み出すしかない。
科学技術で証明できるような問題ではありませんから。
だからこそ、子どもには徹底的に人生を肯定する物語を語らなければ
ならないのでしょう。

素晴らしい書評です。
教えて頂いて感謝いたします。

今ほど希望を持てる時は無い、希望とは現実が
余りに酷い時に持つものであるから・・。

こういう考え方が出来るかどうか、それは子供の時に
どんな物語に触れて育ってきたかに拠るのでしょう。

どんな状況からも可能性を見出せること、それを
バイタリティー(生きる力)と呼ぶのだと思います。
その為にはどんな物語が体の中に染み付いているか
なんですね。

疑っても信じても共に間違う可能性は有る、
しかし疑いの中からは何かが生まれる事は
無いのだと思います。

今ほど信じる、肯定して見る、受け入れる
という精神が本当は必要な時代は無いのかもしれない
、またその事が鍵になるのかも知れないそんな風に
思いました。

是非この本、手にとって見たいと思います

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