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2006年1月31日

西行巡礼

◇◆第179回◆◇

4101081212西行巡礼 (新潮文庫)
山折 哲雄
新潮社 2002-12

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巡礼は俗から聖、聖から俗への円環
著者の山折哲雄氏は国際日本文化センター所長で、日本を代表する宗教学者です。表題は『西行巡礼』となっていますが、全体は三部に分かれて、一部、二部は巡礼についての著者の思い、三部が西行に関する考察です。どのような宗教にも巡礼はあり、イスラムのメッカ巡礼や日本では四国巡礼、熊野詣などがよく知られています。

遍歴や遊行は、日本では人間が主体ではなく、カミが人間にとりつき、カミの遊幸として始まっています。アマテラスオオミカミの「御霊代」がヤマトヒメなどに憑いて各地を遍歴し、大和から最後は現在の伊勢の五十鈴川の川上に落ち着きました。ヒトはカミに導かれて、各地をさまよったのです。

このカミの遊行を模倣しようとしたのが後の「聖」と呼ばれる遍歴僧たちであり、彼らは乞食や捨身の境涯でカミとの邂逅を目指し各地を遍歴しました。彼らは人々の中にあっては道化を演じ、一個の個人に戻るときは祈りの智者として行動しました。それがやがてカミやホトケに見守られてそれらとともに行脚するという一般人の巡礼行動へと変化していきます。

こうした庶民の巡礼行動は、往路は精進潔斎して、苦難の道を聖地目指して歩む緊張のコースでした。聖なる中心地にはしばしば聖なる泉がわき、巡礼者の渇仰の的となってきました。往路においてはこれらすべてが受難の道行きを完成させる装置でした。しかし、ひとたび聖地を参拝し、故郷に向けて戻る復路においては、これがたちまち癒しと娯楽の歓楽の場となり、緊張から弛緩へ、聖から俗への円環運動を完成させる装置になったのです。

すべてを捨ててすべてになろうとした西行
西行について、その行動を追いながら、著者は「西行は何者にもなろうとしなかった人間ではないか」と書いています。彼は北面の武士という地位と妻子を突如捨て、出家します。しかし、その先は高野山で修行をしたかと思えば伊勢へいって神道の世界に遊んでみたり、また和歌を詠み、各地を遍歴し、といった具合です。

勝手気ままというべきか、今日の言葉でいえば専門家になることを初めから放擲していました。世間の期待に沿うような出家者や歌人になることを拒絶して生きたのです。しかし、逆に何者にもなるまいとしてそのうちに何者にもなろうとする意志を含んでいたともいえます。すべてを捨ててすべてになろうとした、西行の姿を著者はそう見ています。そこのところが西行に大きな魅力を与えているともいえるでしょう。


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